曲がったキュウリ

 キュウリの皮にはイボと呼ばれる突起があるが、もともとは未成熟な実を守るための刺だったらしい。
 漬物やモロキュー、カッパ巻きなど、キュウリはいかにも素朴で庶民的な野菜だ。しかし、江戸時代の武士は恐れ多くてキュウリを口にすることはなかったという。キュウリの切り口が徳川家の葵の御紋に似ているというのがその理由だ。「この紋所が目に入らぬか」と。
 水戸黄門は曲がったことは大嫌いだが、キュウリはときどき曲がってしまう。
 曲がったキュウリも味そのものに大きな違いはない。しかし、曲がったキュウリは見てくれが悪く、箱詰めもしずらいことから、すっかり落ちこぼれの烙印を押されてしまった。そして、曲がったキュウリを作らないように、キュウリの先に重りを垂らしたり、筒状の型のなかでキュウリを太らせたりという、笑えないようなことが行われたのである。
 そもそもキュウリとて、生き物である。いくら環境が同じでも、同じものができないところが、生き物のおもしろさであり、すばらしさである。ところが、見かけのよさや、箱詰めのしやすさを追求するあまり、工業製品のように同じものを揃えることが求められるようになってしまったのだ。
 収穫されたキュウリは大きさや曲がりの程度によって、細かく階級が決められ、選別機械が外見だけで容赦なく収穫物を選り分けている。たとえ味には差はなくても、小さなキュウリや曲がったキュウリは規格外として捨てられ、二度と陽の目を見ることはないのだ。
 気のせいかキュウリが選別されるようになったころから、私たち人間も偏差値や学歴といった単一の評価基準で判断され、選別されるようになったとも思える。曲がったキュウリを作るまいと、子どもたちに重りをつけたり、型にはめたりしてはいないだろうか。そして、キュウリも子どもたちも、恐ろしいくらい見てくれが揃うようになった。個性はどこへ行ってしまったのだろう。
 いくらアインシュタインが世紀の天才であっても、世界人類がすべてアインシュタインだったら、世の中は成り立たないだろう。曲がったキュウリは確かに見てくれは悪い。しかし、本来、多様性に富む生き物がまったく同じであることがおかしいし、考えてみれば気持ちが悪い。
 キュウリだって、できることならまっすぐ伸びたいと頑張っているのだ。曲がったキュウリも、まっすぐなキュウリも、それぞれのキュウリがキュウリらしく育つことができる時代は、一体いつになったら来るのだろうか。
(「身近な野菜のなるほど観察記」より一部抜粋)