青函連絡船洞爺丸はなぜ沈んだか(上編)

昭和29年9月26日台風15号青函連絡船洞爺丸は沈んだ。
三菱重工神戸造船所で建造されたのは昭和23年11月で当時信頼性の高い優秀船であった。
全長113.2m 幅15.85m 最高速度17.4ノット 乗客定員1136名 建造費1.5億円で終戦直後の当時、較べるものがないほどの巨費だった。
台風15号の進路は26日3時鹿児島 5時愛媛 9時鳥取西沖 12時佐渡西沖 15時青森西沖 20時江差沖で鹿児島から青森まで速度は約110Kmで、青森から積丹は40Kmにスピードダウンした。
昭和29年9月26日14時40分出港予定だった洞爺丸は13時20分第11青函丸の乗客176名(進駐米軍とその家族)と乗組員90名は出港した。
第11青函丸は13時53分「津軽海峡のうねりが高く引き返して洞爺丸に乗船させたい」旨連絡が入った。
その時津軽海峡を航行していた大雪丸からの打電で「風向東・風速22m・天候曇り・波6・うねり6・視界20Kmで現在20分遅れで航行中」の入電。
第11青函丸は14時48分着岸し進駐軍の荷物と寝台車を洞爺丸へ移動するのに洞爺丸の可動橋が再び下ろされたが、洞爺丸の出港が遅れるので可動橋を上げるよう指示された。
その時函館は停電となり可動橋は上げられなくなり15時10分出港しないで様子を見ることになる。
その後停電は回復し可動橋は上がったが出港は見送られた。
しばらくしてブリッチからは午後の陽を受けまっ青に晴れわたった。
気圧は981mb 風速5mで船長は台風の眼と直感したようだ。(眼ではなく温暖前線の仕業だった)
台風は通過したと思い進駐軍の寝台車せ18時30分船長より出港の指示が出された。